番外編 小石川軌緒の物語

ダダーン。


キオはレッスン中に弾いてたピアノを放棄し、大きく両手を鍵盤に叩きつけた。


「キオ!なんですか!また放棄ですか!最後まで弾き終わっていませんよ!?まったく、あなたはどうしてそうなのですか!?」


「先生!私もうこの曲嫌です!弾くなら自分の弾きたい曲がいいです!」


「なんてワガママな!キオ、コンクールまでもう時間がないのですよ?どうしてちゃんと練習しないのですか!」

そんなこんなで今日もレッスンが中断される。キオはそのままピアノのある居間を飛び出し、自分の部屋に閉じこもってしまった。


「また、ダメでしたか」


「はい、あの子はどうも才能がないようですね。音大付属中学の受験も行きたくないようです。リオとは姉妹というのに、なぜこうも差があるのでしょう?」


小石川軌緒 11歳。

 

名門音楽大学付属小学校五年生。

 

家庭は音楽家の家系。母親はピアニストで父親は作曲家。そしてこの小石川家は世間的に物凄く注目されている名家だった。

 

コンコン。

 

母親がドアをノックする。

 

「キオ、入るわよ」

 

母親が部屋に入ると、キオはベットにうずくまり歯ぎしりをしていた。キオにとって今の生活は耐えられるものではなかった。

 

「キオ、あなたまたレッスンを投げ出したわね。どうしてあなたはそうなの!リオはあなたの歳でもっと弾けたわよ」


キオには5個上の姉が一人いた。現在はドイツに留学していて、父親と二人暮らし。小さい頃から姉はキオと比べて何をしても得意で、ピアノも一級品のものだった。


「お母さん!あたし、本当はピアノは弾きたくないの!本当はあたし、絵を描きたいの!」


「キオ!まだそんなこと言ってるの!?あなたはお母さんがどれだけあなたのために時間を費やしてきたかわかってるの?あなたをリオと一緒に一流のピアニストにするためにここまで頑張って続けさせたのに!お母さんの気持ちなんか、何にも考えてないのね!」

 

母親はそういうと、怒って部屋から出て行ってしまった。キオは部屋で一人でポツンと黄昏て、天井をぼーっと見ていた。


キオは小さい頃からピアノをずっとやっていたが、どうも様にならなかった。いつも姉と比較され、全然上手に弾けず、音楽に対して何か違和感を感じていた。

 

そしてあるとき、キオは図工の授業で絵を描くことにとても楽しみを覚え、母親に内緒で学校の図工室で先生に頼んで絵を描かせてもらっていた。キオにとって、音楽をやっている時間よりも、絵を描いている時間の方がずっと幸せだった。


「あたし、あたしは絵を描きたいのに・・・。けどお母さんはわかってくれない・・・」


キオは音楽よりも美術に対する感性を持っていた。しかしそれに誰も理解を示してくれなかった。

キオは小さい頃から主張を表に出さない少女だった。

 

ピアノを始めたのは4歳の頃であり、姉の真似をして弾くようになったが、キオにとって、ピアノより絵の方が得意だった。

 

キオの姉、小石川莉緒はキオの通う小学校の卒業生ではかなりの有名人だった。

 

そして音大付属の学校の顔として学校に在籍し、学校中からも憧れの眼差しを向けられ、中学校を卒業するとともにドイツに留学し、一流ピアニストとして練習に励んでいた。

 

そして妹のキオはそんな音楽の超エリートの姉と比較され、いつも学年中の友達に蔑まれていた。そして学校では姉との比較されるコンプレックスもあり、友人もなかなかできなかった。学校にキオの居場所はなかった。行ったとしても姉と比較されるばかりで自分を認めてくれる友達はいなかった。

 

キオの学校での唯一の楽しみは放課後に図工室に行き、図工の先生と一緒に絵を描くことだった。自分の描いた絵を見てもらえれば、いつか母親に認めてもらえる。そんなふうにキオを思っていた。

そしてある時、ピアノのレッスンもろくにしなくなったキオに対し、先生も母親も呆れ果て、もう先生にも来なくなってもらい、何も口出しをして来なくなった。やりたくもないピアノをやらずに済み、絵に没頭できるようになり、キオの生活は一変し、生き生きとした毎日が送られるようになった。

 

あるとき、キオの絵の才能を認めてくれる先生が絵のコンテストにキオの絵を応募した。そしてそれが最優秀賞を受賞したことにより、キオはとても喜んだ。

キオは賞をとれたことを大いに喜んだ。そしてこの事実を早く母親に伝えたかった。そして母親に認めてもらい、音大をやめ、自分は美大を目指すということをすぐにでも伝えたかった。

 

「ただいまー!お母さん!聞いて聞いて!あのね、私、絵のコンクールで賞をとったんだよ!お母さんに見てもらいたくて、あれ?」

 

家に帰るとそこに母親の姿はなかった。どこかへ出かけているのか?それともまだ帰っていないのか?

 

キオは家中を探したが母親はいなかった。台所に行くといつもしてある夕飯の支度がしていない。そして代わりに一通の手紙が置いてあり、キオはそれを開封した。

 

「キオへ

キオ、お母さんはあなたがピアノを弾かなくなったことについて、今まで何も言いませんでしたが、もうあなたが弾かないのであればそれは構いません。お母さんはあなたをピアニストにすることはもう諦めました。もう何も言いません。ただお父さんもお母さんも今まで音楽で生きてきた人間です。キオがどうしようと構いませんが、ピアニストにならないのであればもうお母さんはキオと一緒に住む気はありません。これからはドイツでお父さんと一緒にリオの面倒を見ることに決めました。あと進学もどうぞ近くの公立に進んでください。手続きは済ませてあります。学費や生活費は毎月きちんと送り、家政婦さんを雇いきてもらうことにします。あとはキオの好きにしてください」

 

手紙を読み終えると涙が溢れそのまま崩れ落ちてしまった。キオの心の中にある何かがぷつりと途切れた。そしてその日、キオは夕飯も食べずに一人泣き崩れ、ただただ悲しみに暮れていた。


次の日、キオの両親がドイツに行ってしまったことが瞬く間に学校で広まった。担任はそれなりにキオに気遣っていたが内心ではキオに対して厄介ごとの種としか思っていなかった。才能もやる気もなく、保護者もいなくなってしまった抜け殻のような少女にもはやかける言葉が見つからなかった。

 

もともと内気だった彼女に対して、クラスメイトは以前より一層酷い仕打ちをした。無視以前に陰でこそこそ悪口を言ったり、キオの道具を隠したりした。

 

放課後、傷心だらけのキオは図工室に出向いた。しかしそこに図工の先生の姿はない。代わりに違う先生がそこにいたのでキオはすぐさまその先生に尋ねた。

 

「あの、前にいた先生は今、どうされたのですか?」

 

「ああ、小石川さんだね。前の先生はもう違う学校に移ったんだよ。もともともう行くことは決まっていたけれど、君の絵のコンテストが終わるまでどうかここまでいさせてくださいっていう約束でね」

 

キオはその話を聞くとただただショックで崩れ落ちた。母親だけでなく、自分の唯一の理解者だった先生まで自分の前から消えてしまった。その日キオはただただ重い足取りで家に帰った。

 

キオはその日、自分で何をしたのか全く覚えていなかった。昼に家に帰って何もせずに暗くなるまでただぼーっとしていた。家に帰っても誰もいない。学校にも自分の居場所はない。もはやこの世界にキオがいていい場所は存在しなくなってしまった。

 

キオはテレビをつけ、なんとなく教育番組をつけた。

 

そうすると、そこで音楽番組でピアノの演奏がされていた。それをみたキオはすぐさまテレビを消してピアノのある部屋へと向かった。

 

「ピアノか‥。」

 

ピアノの扉を開け、鍵盤に触れる。ああ、そうだ。これはピアノだ。私、ずっとずっとこれを拒んできた。私のやりたいものではなかった。私が弾きたいものではなかった。けれど、自分の生涯の最後に自分自身に葬送曲を送ろう。

 

そう言ってキオは椅子に椅子に座ると、真夜中の真っ暗い部屋でピアノの前にある小さな蚊灯りでピアノを弾きはじめた。

 

最後に、自分の好きだった、昔、好きで一度だけちゃんと最後まで弾けたこの曲を、自分に弾こう。

ドビュッシー アラベスク第一番」

 

 

キオは静かな手捌きでそれを弾きはじめた。

 

深夜10時過ぎ。真っ暗な一人の部屋でキオはその曲を弾いた。自分がピアノを始めてから唯一好きだった曲。唯一弾いているのが楽しかった曲。

 

キオは演奏に夢中になって我を忘れて弾いた。そしてその時間だけはただただ幸せだった。自分が闇の中にいることすら忘れて弾いた。力のある限り弾いた。

そして演奏が終わった。この時、キオは自分が今まで弾いた中で一番上手に弾けた。こんなに上手に弾けたのははじめてだった。

 

そしてこの時、キオは自分は瓦礫の一部になりたいと考えた。自分自身が瓦礫となり、崩れ落ちても何も考えなくてもいい。そんな存在になりたいと。そう考えていた。

 

気がつくとキオは表へ出て、薄暗い小石の並んでいる鉄の轍の道を歩いていた。ここでキオの記憶はプツリと途絶えてしまった。